月夜に映える 若かりし版画家たちが刻んだ「生」 「藤森静雄と『月映』の作家」福岡市美術館

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  • BY  大元茜

    感受性を磨きたい 感性の深層に迫りたい アートで豊かな日常を

伝えたいことがあるとき、何を使ってどのように表現しますか?

現代では、SNSやウェブサイトを通して、誰かと交流したり、思いを共有したり、誰でも気軽に扱えるコミュニケーションツールが普及しています。このような手段のない100年ほど前の時代、郵便での手紙とは別に、自己表現の場、同じ志を持つ仲間の交流の場としてブームになったのが“版画誌”です。

その版画誌をテーマとしたコレクション展「藤森静雄と『月映』の作家」が福岡市美術館で開催中です。

『月映(つくはえ)』は1914年に発行された、藤森静雄、恩地孝四郎、田中恭吉の3人による木版画、詩、短歌からなる版画誌です。当初は、木版画の魅力に取り憑かれた3人が作品を交換し合うための小規模な冊子でした。田中の死や資金難により全7号、わずか1年ほどで終刊となりましたが、草創期の版画誌として高く評価されています。

大濠公園駅から、スワンボートの浮かぶ池を眺めつつ、家族連れやランナーたちであふれる道をずんずん歩き、美術館へと向かいます。開放的で賑やかな外の雰囲気とは対照的に、静かな展示室。紙を支持体とする作品の劣化を防ぐため、ひときわ照度が落とされているのでしょう。気持ちが自然と鎮まります。

展示は藤森の初期作品や写真資料からはじまります。1890年久留米市生まれの藤森は、1910年に上京。そこで親交を深めた恩地と田中の2人から、自刻の木版画集出版に誘われます。初めての版画作品《五月》は、荒削りながらも、彫った面が白、残された面が黒となる版画の特性をしっかりと表せています。またシンプルな構図の中にも、その後の『月映』における表現の要素を見ることができます。背景の丸刀による彫り跡。胸を押さえているか、あるいは何かを抱えているかのような右手。眉を歪め、瞼を閉じた顔の表情は、苦悶しているかのようです。

続いて、版画誌『月映』の各号から4枚ずつ抜粋された版画が展示されています。全号を通し、不安や苦悩、孤独感を感じ取れます。これは病や死を身近に感じていた3人が同じ世界観を共有していたことの現れです。第I集刊行直前に和歌山へ帰郷した田中は闘病しながら制作を続け、藤森の妹は第III集編集中にわずか17歳で亡くなります。3人それぞれが病や死に直面した自己の心境を表現し、極度にやせ細った人体やうねる線、幾何学図形を用いて、焦燥感や喪失感を痛々しい程に吐露しています。

中でも印象的だったのは、第II集のモノクロームで表現された藤森の作品です。《夜のピアノ》や《こころのかげ》のうなだれた人物の背後にのしかかる影や、《妹は病みぬ》の俯瞰の構図で描かれた病床の妹の上を飛ぶ虫は、忍び寄る死を象徴しているようです。

第V集以降、短歌や詩のみを発表していた田中は、最終号の第VII集発行を待たず、1915年10月に23歳で亡くなりました。

『月映』終刊後、藤森は恩地らとの共同制作である版画集『新東京百景』にて淡い色彩を用いモダンな東京のまちや建物を表し、恩地は常に新しい表現を追い求めて身近なものを抽象的に表現する版画や写真を手がけました。それぞれの手法で表現されながらも、藤森の作品からは丸刀の彫り跡や円弧を描く丘陵地形、恩地の作品からは幾何学図形を用いた抽象表現と、少なからずその原点を『月映』に見出すことができます。

『月映』に表現された不安や苦悩は、観る者をいたたまれない気持ちにさせます。それでも、作品を交換し合うことから始まった『月映』は、3人にとって、気持ちを共有し、励まし合い、切磋琢磨する場所でした。必死に表現する行為そのものから3人の版画家の「生」が伝わり、『月映』の魅力となっているのです。

すっかり『月映』気分に浸り、仄暗さにも慣れたころ展示室を出ると、全面ガラス張りの大きな窓から明るい昼の光が降り注いでおり、まるで別世界です。

展示は2019年8月25日まで。福岡市美術館では、7月から10月までの金・土曜日は夜8時まで開館しています。この夏は、ぜひ夜に『月映』の世界を体感してみてください。