そうだ、“紙上旅行”に行こう。~ステイホームのおすすめ旅行記・旅行エッセイ~

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  • アバター画像   BY  秋山沙也子 佐賀県立美術館学芸員。この道まだ3年目、佐賀に暮らして5年目。

唐突だが、旅に出たくありませんか。私は猛烈に出たい!

感染症による行動制限や、仕事、家事や子育てなどの日常の色々な縛りから解き放たれて、知らない街をこころゆくまで、ひたすらふらふら闊歩したい。今ならなおさらのことだが、きっと誰しも、そんな気分になるときがあるのではないだろうか。

個人的に旅なら国内でも国内でも好きだけれど、初めて海外へ行った時のことは今でも忘れられない。地図上でしか見たことのなかった大陸、国が自分の足元に本当に存在しているのだ!ということを実感した時のゾワゾワとした昂奮。知らない場所では、いつもより心なしか五感がピンと鋭くなり、空気の匂いの違いまで楽しめるようになる。ガイドブックをとことん読み込んで出発するのもいいが、思い立って突然訪問した場所で新しい出会いを楽しむのもいい。もちろん、移動中の時間も旅の大きな醍醐味だ。

残念ながらまさに今、世界中で猛威を振るうウイルス禍によって、旅に出ることが物理的にほぼ不可能な状態だ。

今日はそんなロンリーな旅心を慰めてくれる、私の好きな旅行記・紀行エッセイ4冊を紹介したい。

『ももこの世界あっちこっちめぐり』(さくらももこ著、集英社、1997年)
『またたび』(さくらももこ著、新潮社、2003年)

高校生の頃ハマった、さくらももこ氏(いわずと知れた、漫画『ちびまる子ちゃん』の作者)の旅行記エッセイ。

とにかく多趣味な印象のさくら氏だが、雑誌の企画で世界のいろいろな国を気の向くままに旅する。美味しいグルメに舌鼓を打ち、個性的な工芸品や雑貨を買い漁る。たまにトラブルに巻き込まれて地団太を踏むことも。個性豊かなガイドさんや、時には家族や現地の人を巻き込み、抱腹絶倒の珍道中が繰り広げられる。行き先も、ザ・定番!なハワイや韓国、台湾から、さくら氏の愛する宝石の原産地スリランカ(しかも国賓級の歓待を受けるという…)やチベットの高地、ロシアのハバロフスクなど、実に多彩だ。

日常をコミカルに描いて右に出る者はいないさくら氏だが、その観察眼は旅先で一層冴えわたる(ように思う)。思い立ってふらっと行くような旅、誰かとワイワイ楽しむような旅がしたくなる一冊。一話一話も短いので、さくっと気軽に読みやすい。

『北欧の旅』(カレル・チャペック著、筑摩書房、2009年 ※原版1936年)

チェコ(当時はチェコスロヴァキア)の小説家で劇作家でもあったカレル・チャペックの著した旅行記。故郷である東欧の小国チェコスロヴァキアをこよなく愛しながら(戦間期の当時は共和国として独立を果たしながら、ドイツをはじめとする列強各国に虎視眈々と狙われている状態だった)、さまざまな国や地域をめぐり、各地の風物を新鮮なまなざしでみつめている。

チャペックの紀行文は冷静な観察眼が光り、どこかシニカルなところもありながらユーモアと茶目っ気も旺盛だ。小説家らしい美しい表現の端々に、初めて目にした景色や風俗に対する隠しきれない驚きと感嘆が感じられる。この時は既に流行作家であったらしい彼だが、心の内では子どものようにはしゃいでいる青年の姿が想像できる。旅の感動は時代や国を問わず、いつもどこでも変わらないようだ。

チャペック夫妻は、1936年にデンマーク、スウェーデン、ノルウェーの北欧諸国をめぐる旅に出発した。木造りの可愛らしい家々を絶賛し、原野に広がる大自然と未知の生態系やそこで生活する人の逞しさに目を見開き、白夜やフィヨルドなどの北欧ならではの自然現象を、美しい比喩で表現している。乗り合わせた人々への冷静な観察や船上で過ごす日常など、船旅ならではの描写もユニークだ(飛行機が主流になった現代ではある意味、すごく贅沢な旅だ)。

現地の人々の姿に交じって、スカンディナビアの先住民族であるサーミ人も登場する。原始的な暮らしをしているように描かれる(当時の文章なので、現代では偏見に見える表現も存在する)彼らの暮らしもまた、約1世紀が下った現代では、ずいぶんと変化していることだろう。

ページの端々で登場する、チャペック直筆の挿絵がまたかわいいのだ。いかにも実景を前にしてスケッチしたという、その瞬間の心の昂ぶりが垣間見える。

とにかく旅の楽しみが詰まった文章で、人生に一度でも、こんな濃密な旅に出てみたいなあと思う。コンパクトな文庫版なので、何度も旅のお供に連れだしては、移動中や旅先で読み返している。

なお、チャペックの旅行記シリーズには、他に『イギリスだより』、『チェコスロヴァキアめぐり』、『オランダ絵図』、『スペイン旅行記』(すべて筑摩書房刊)がある。読み比べてみるのも楽しい。

『よく晴れた日にイランへ』(蔵前仁一著、旅行人、2015年)

イランという国について、どういうイメージを持っているだろうか?イスラム原理主義の厳しい戒律で人々の暮らしが縛られる国。西洋と敵対し、排他的で女性蔑視が強い国。私もこの本を読むまでそのようなイメージを強く持っていた。しかし、蔵前氏がイラン各地を旅して綴ったこの紀行文は、そんな幾重にもわたるイメージのヴェールの先に、私たちと変わらない普通の生活と大らかで温かな人びとがいることを教えてくれる。

行きずりの旅人に対する驚くほどの親切さ、活気と生活感あふれるバーザールの光景。蔵前氏は持ち前の深い旅行経験でイランの“日常”にどっぷり浸り、私たちにこの国の実情をつまびらかにしてくれる。なかでも美しい装飾で埋め尽くされ、悠久の歴史を語るモスクや貴人の邸宅は、写真を見るだけでも嘆息したくなる。

蔵前氏の関心はさらに、知られざるイランの少数民族にも及んでいく。クルド人の村々を訪れ、国境地帯で遊牧民たちを探し求める。彼らが作り出すキリム、ギャッベなどの美しい織物に深く惹かれる蔵前氏。時には逆境に陥りながらも、目まぐるしい変化の中でしたたかに生き抜く人びとの姿を想像した。

なんだか遠い存在だと思っていたイランが、この本を読んで以来、ぐっと身近に感じるようになった。国際情勢やそこからもたらされるイメージから離れ、その国の歴史や文化を深く知ることができることも、読みごたえのある旅行記の特徴だと思う。

『エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦』(梨木香歩著、新潮社、2012年)

『西の魔女が死んだ』、『家守綺譚』などの作品などで知られる小説家・梨木香歩氏による、エストニア旅行記。

エストニアはいわゆるバルト三国(ロシアの西隣)の一番北に位置する国だ。この国について、日本ではまだあまり知られていないだろう(私も恥ずかしながら私も知らなかった)。嵐を抜けて、エストニアに降り立った彼女を待っていたのは、深い森とバルト海、古都に小さな島や村々、そして長年にわたりスウェーデンやロシアの支配を受けながら独自の歴史や文化を紡ぎ続けてきた人々だった。梨木氏は、その地に生きる人々の手触りやぬくみを感じ取り、文章にしたためていく。

深い森のキノコやベリー、動物たちの豊かな気配や幻のコウノトリ。今もなお社会的な分断が残る地で、自然の恩恵を受けてつつましく暮らす田舎の人々。その土地の明度や温度までも、まるごと包み込むような梨木氏のまなざしは、とても温かだ。なかでも深い森の中で心身を開放していく描写はすがすがしく印象深かった。
時間をたっぷり取って、身の周りの自然や風をめいっぱい感じながら読みたい一冊。

また、鳥の生態に関心が深い彼女は、渡り鳥たちの旅の軌跡を追った『渡りの足跡』も著している。こちらもおすすめだ。

世界の多様化がこれだけのスピードで進んでいるように見える現代でも、今回のコロナウイルス禍がきっかけとなり、根深い分断や偏見が各地で再びあらわになっている。そんなとき、旅の経験や旅行記は他者への想像力を育て、世界をよりクリアに見直すきっかけにもなるだろう。有限な人生で、残念ながら行くことができない場所が沢山あっても、旅行記なら旅先の空気や文化を想像しながら追体験することができる。しかもいつもどこでも、好きな時間に。

まだまだ遠出は難しそうなこの夏は、素敵な旅行記で“紙上旅行”を楽しんでみてはいかがだろうか。いつかまた、心おきなく旅に出られる日が来ることを祈りながら。