私たちは日々、視覚に頼って生活しています。もし視覚情報が得られなかったら、人間は世界をどう認識するのでしょうか。本書は、視覚障害者がどのように世界を認識しているかを、章ごとのテーマに沿って「体験」できる書物です。
著者の伊藤は、幼い頃から生き物が好きで、中学生の時に本川達雄の『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書, 1992)を読み、感銘を受けます。「時間感覚は、生き物のサイズによって変わる」、「生物学者の仕事は、想像力を啓発することである」。このことを知った伊藤は、やがて生物学者になることを意識するようになります。そして「自分と異なる体を持った存在のことを、実感として感じてみたい」という願望を強く持つようになりました。やがて伊藤は、芸術や感性的な認識について哲学的に解明していく「美学」を専門的に学びはじめ、とくに美学と生物学がクロスする「身体」に着目します。美学では言葉にできないものを言葉で解明していくため、ある事柄について理解できた時、「腑に落ちる」感覚がする、と伊藤はいいます。伊藤はその感覚を重視し、「体について体で理解する」というテーマに沿って研究を進めはじめました。体について理解する学問といえば「身体論」がありますが、既存の身体論では「身体一般」について論じられており、一人ひとりの身体が持つ「違い」は排除されています。伊藤はその「違い」にあえて着目し、「普遍」と「個別」の中間の視点で身体をとらえるという、新しい身体論を考えました。そして「身体一般」との違いが大きい「見えない人」を対象に、対話を通して調査します。
伊藤は、美学的な関心から視覚障害者について研究することは、「好奇の目」を向けることだと解説しています。ここでいう「好奇の目」は、決して不謹慎な意味ではなく、見えない人の世界を理解しようとする姿勢です。そして自分と異なる存在の世界を理解するには「変身する」ことが大事だといいます。この本を通して彼女は、見えない人に「変身するためのコツ」を提示しているのです。
面白い「見えない人の世界」
一般的に障害者を「好奇の目で見る」ことはタブー視されています。なぜならその視線のなかには「蔑み」や「憐れみ」が含まれていることがあるからです。しかし伊藤の「好奇の目」からはそういった“いやらしさ”が全く感じられません。むしろ純粋に「知りたい」「理解したい」という探究心が現れています。だから障害をテーマにした本であるにも関わらず、軽快で純粋に面白く読むことができます。この本の優れているところは、ただ「見えない人の世界」を紹介するのではなく、そこから考えられる考察や問題について深く言及しているところです。「第3章 運動」では、見えない人は「足」を触覚的に使って動いていると述べ、何が起きても大丈夫なように足をはじめとした身体全体で「構え」をしていると考察しています。おそらくそれは習慣のなかで自然に身についたもので、見えない人の口から出たキーワードではないでしょう。しかし伊藤はうまく言語化し、読者にわかりやすく説明しているのです。
本書の中で、私がとくに印象に残った3つのポイントを挙げます。
一つ目は、「第1章 空間」で述べられていた、視野を持たないゆえに視野が広がるという話。見えない人は視覚に頼らない分、他の器官で情報を得ます。歩いている足の感覚、匂いの方向、音の強弱……。そのため、空間を三次元的にとらえる力がつくそうです。また、情報が限られるため、心に余裕が持てるようになったという人もいるそう。デジタルデトックスという言葉を思い出しました。日頃「見える人」がどれだけ視覚情報に無意識に影響を受けているかが分かります。
二つ目は、「第2章 感覚」で述べられていた、“特別視”についての言及。見えない人が点字で本を読んだり、一人暮らししていると、私たちはしばしば「すごい!」と思ってしまいます。しかし、それは無意識的でも「見えないのにすごい」という「蔑み」の意味が含まれているのではないかと指摘しています。これは伊藤が見えない人から聞いた意見だそうです。そこで伊藤は、「すごい」ではなく「面白い」ととらえるように提案しています。これは障害の話だけでなく性差や年齢差にも通ずる、誰しもがハッとさせられる指摘ではないでしょうか。
三つ目は、「第5章 ユーモア」で取り上げられていた、見えない人の実際のエピソード。レトルトのパスタソースを開けるときはいつも「運試し」のような気分で楽しむという話。私なら「味が分かるように点字で示すべきなのに……」とネガティブに考えていました。しかしそれは見える人が一方的に考える「サポート」であって、必ずしも見えない人を幸せにするとは限りません。状況を逆さにとって、娯楽にしてしまうという発想に脱帽です。
対等に差異を面白がる
「序章 見えない世界を見る方法」で、この本の根底にある考え方について言及しています。
本書では最初から最後まで「意味」というものについて書かれています。「意味」とは、「情報」があって存在するもので、受け手によって左右されるものです。例えば、「明日の降水確率は60%だ」という情報は、明日遠足がある子供たちにとっては心配の種ですが、日照りが続き、雨を待ちわびていた農家にとっては朗報になるでしょう。このように受け手次第で同じ情報でも、異なった意味を見出すことができます。
見える人が見えない人に対してとる態度は、一般的にはどうしても「情報」ベースになりがちだと指摘しています。つまり福祉的な関係であるということです。福祉的な発想の根本には、「見える人が見えない人を助ける」という関係があります。もちろんそういった障害者の格差を無くそうとする「情報のための福祉」は必要で、まだまだ不足している部分もあります。ですが伊藤は、障害のある人とない人の関係が、そういった「福祉的な視点」にしばられてしまうことを危惧しています。「与える側」と「受け取る側」という上下がある関係でなく、よりフラットな関係を築くためにはどうしたらいいのでしょうか。伊藤は、「意味」ベースの関わりが重要だといいます。「意味」ベースの関係性において、そこに違いはあるが優劣は生まれません。先述の例を取っても、「明日は雨かもしれない」という情報に対する子供たちの心配と農家のよろこびには何の優劣もないのがわかります。このように、対等でかつ、差異を面白がる関係が必要だと主張しています。
本書はこのことを繰り返し、繰り返し述べており、「空間」「感覚」「運動」「言葉」「ユーモア」という5つの「情報」を、見えない人はどうやって受け取っているのかを丁寧に解説しています。私は、「見えない人」の世界のとらえ方に面白さを感じると同時に、「伊藤」の見えない人のとらえ方にも驚きを感じていました。彼女は、「見えない人」の世界を教えると同時に、純粋な「好奇の目」でとらえる世界も教えてくれていたのです。