伝作窯と幸楽窯 佐賀県有田の個性的なふたつの窯元

佐賀県有田町のふたつの窯元へ、2019年10月26日、ぽたり編集部員たちで取材に行きました。有田町は、ゴールデンウイークの陶器市や秋の陶器まつりが人気ですが、空いている日の窯元巡りは、お店の人と会話できて、いろいろ学べて楽しかったです。

まずは、伝作窯へ。

天気がよくちょうどいい気候、紅葉が少し赤くなり始めています。立派な石垣でできた坂道を登るとお茶室がありそうな建物が見えてきます。

社長の横田博文さんがニコニコと迎えてくれました。事前に調べた情報では「ありえないことを成し遂げた革新的な技術がある」窯元らしく、勝手に怖そうな人かなと想像していましたが、優しく面白い気さくな方でした。

伝作窯の特徴は、陶器と磁器がひとつのお皿やカップになっていることです!

陶器は土物、磁器は石物と呼ばれ、くっつきません。どうしてそんな無謀とも思えることをしたのでしょうか。それは、先代の友達だった有名ホテルの料理長から、ベースは丈夫な陶器で盛り場(料理を盛る部分)は白い磁器の洋皿を要望されたからでした。

土の改良を含め、何度も試行錯誤して接着できるようになったのは3年後でした。くっつける作業や素焼き、うわぐすり塗りには、通常の3倍から4倍の手間がかかります。うわぐすりを磁器に塗るときは陶器の部分をカバーし、陶器に塗るときは磁器の部分をカバーします。桜の花の部分は、数ミリの小さいサイズひとつひとつ保護のカバーをしてうわぐすりを塗ります。カバーをするのも剥がすのも大変そうです。大皿では「花びらひとつ10分かかり180個あります」とさらりと言われ、「陶芸の世界恐るべし」と思いました!

ひとつの作品を作るのにいったい何時間かかるのでしょうか……。焼き物は、途中でヒビが入ったり、最後の焼きでダメになったりします。そのため、10個の注文にちょうど10個作ればすむわけではありません。必ずダメになるロスの分を見込んで作らなければならないのです。商品のお値段はそれなりにします。でも、商品ができあがるまでの時間や職人さんの技術力を想像すると決して高くなく、むしろ安いくらいです。

この高度な技を持つ職人さんがどんどん減っています。まだまだこの窯元の商品の存在が知られていないのがもどかしい。作るのに時間がかかり、ロスが多い陶芸品です。世界中の人に知られれば、欲しくても手に入らないものになるはずです。狙い目は今ですよ!!

次は、幸楽窯です。

出迎えてくれたのは、ピメンタさんです。ブラジル出身の、立派なおヒゲで笑顔いっぱいの方です。ポルトガル語、日本語、英語、中国語を話します。アーティスト・イン・レジデンスとゲストハウスとお店のお仕事をされています。

ピメンタさんは、ブラジルの大学でデザインと建築を教えていて、アトリエで焼き物をつくっていました。アーティスト・イン・レジデンスで中国江西省北東部の都市にある景德鎮へ。景德鎮は、漢代から陶磁器生産が始まったという有名なまちです。そこで知り合った日本人が有田に行った縁で、有田で働くことになったそうです。2015年1月から、アーティスト・イン・レジデンスのコーディネーターとして勤務しています。「お食事は合いますか」と聞くと、「和食は美味しいです。カレーが大好き。チーズだけは日本のものは味が薄いから苦手」とのことでした。

幸楽窯は、トレジャーハンティングが世界的に有名です。トレジャーハンティングとは、宝探しのようなお買い物ゲームです。広い建物内にある約10万個の焼き物のなかからお気に入りの品を探し、バスケットにつめて持ち帰ることができます(5000円から)。

このアイデアは、社長の徳永隆信さんとピメンタさんの会話から始まりました。アーティスト・イン・レジデンスに使おうとしていた移築した元小学校には、売れない在庫品が山積みでした。バブルが崩壊し、24時間動いていた工場がストップし、大量の商品がそのまま残っていました。絵付け途中の商品もあり、徳永さんは「売り物にならない」と考えていました。ところが、ピメンタさんは「どうして? 私は欲しいと思う。私以外にも欲しいと思う人もいるはず」と返したことから始まりました。

当初は広告費がなく、ひとりひとりのお客さんを大切に、従業員一同こころを尽くしました。はじめの頃は、客が見学に来ても、職人たちは下を向いて黙々と作業をしていました。ところがピメンタさんの声掛けで、今では仕事に誇りを持って、ニコニコしてお客さんとコミュニケーションをとっているそうです。

最初に九州在住の外国人が来て、SNSでの紹介から広がりました。やがて日本各地に住む外国人や外国からも来るようになります。韓国からのお客さんが来た次の週末には、何十人もの韓国人が空っぽのスーツケースを携えて来るようになりました。どうやら最初に来た人がSNSに投稿したようです。そこには、空港到着から電車の乗り方、駅からの歩き方、トレジャーハンティングのやり方が紹介されていて、郵送した商品が数点割れてしまったことが書かれていました。そのため、みなさん空っぽのスーツケースを持ってきたのです。日本人はその後から来るようになりました。

有田駅の近くの鰻屋さんでは、食事したお客さんを幸楽窯まで車でよく送ってくれるそうです。外国人観光客が来た時には通訳してほしいと電話がかかってくると、嬉しそうに話すピメンタさん。有田になくてはならない人になっています。ピメンタさんの口からは、人と人のつながり、おもてなし、仕事のやりがい、自尊心の持ち方など、いろいろなトピックが出てきます。さすが先生、優しくわかりやすく教えてくれました。

どちらの窯元でも「バブル崩壊」という言葉を聞きました。「有田町は人口より就業人口の方が多かった。工場は300人働いていて、24時間稼働していた」。ひっそりとした広い工場で不況の話を伺い、胸が苦しくなりました。時間が止まった工場には、大きな影響があったのです。普通のOLだった私は、バブルのときもバブル崩壊のときも変わらず過ごしていました。こんなすごいことが起きていたんだとあらためて知りました。

職人や後継者が足りないことを考えさせられ、佐賀県や日本の未来が心配になりました。ピメンタさんのような考え方や教えが広がって、国内外で良い商品が相応の価格で売れるようになり、家業を継ぎたい、継がせたいと思えるように変わってほしいです。