若手アーティストのための相談所モバイル・アートクリニック10/19HAMASHUKU KURABITO 聴講してきた!

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  • アバター   BY  伊藤恵子 主婦ライター・旅に出たい在宅ワーカー

若手アーティストのためのアート相談所・モバイル・アートクリニックが去る10月19日、佐賀県鹿島市の酒蔵通り・肥前浜宿のHAMASHUKU KURABITOで開催された。アーティストが自分の作品資料を発表し、美術家の島袋道浩氏とキュレーターの鷲田めるろ氏からコメントやアドバイスをいただくという企画。参加するアーティストは佐賀大学芸術地域デザイン学部に在籍する学生たちだ。この企画は現代アートの知識がほとんどない、受講生の私にとってもなかなかに刺激的である。というのも当方38歳、勤めをやめて半年経過した今は、フリーライターを称している。自分がいかに評価されるのか・今の自分にどの程度の価値があるのかという問いかけは日々痛いほど刺さっている。世代や身分は違えど、講師の批評を受ける学生たちの心情が、聴講する前から思いやられるのである。

白壁の建物が並ぶ酒蔵通りにHAMASHUKU KURABITOはある。ガラス窓のついた木の引き戸を開けると、天井が高いのもあって中は想像以上に広かった。美術家・川崎泰史氏の制作スタジオでありギャラリーでありカフェスペース。手の形にすんなり馴染みそうな温かみのある酒器や、「どこを見ているんだろう?」「なにを考えているんだろう?」と興味を惹かれる、悟っているような醒めているような表情の磁器製の子どもたちの並ぶ空間はなかなか居心地が良さそうである。

まずはSMAART主担当の花田准教授が挨拶。モバイル・アートクリニックも3年目を迎え、アートをマネージメントするレクチャーを行った昨年度までと異なり、原点に戻って「アートとはどういうものか?」を考察する内容となっている。アートに携わる人たちが、作品のどこに注目しているか・作家の卵をどのように見ているかを、作家の卵たちに知ってもらいたいという意図だそうだ。会場にこのHAMASHUKU KURABITOを選んだのは、表現が生まれる現場に足を運んでもらい、地域にこういう“磁場”があることを知ってもらいたいという意図があると説明。
このあと川崎氏がHAMASHUKU KURABITOについて説明を。もともと酒蔵だったこの建物は、地域の人の支えを受けつつアーティストが運営しているとのことである。
花田准教授が講師の二人・国際展に多数参加してきた島袋氏と、世間から注目されたあいちトリエンナーレ2019キュレーターを務めた鷲田氏を紹介し、いよいよアートクリニック開始。

トップバッターは岩崎千万理さん。脚立を昇り降りする女性(本人)を4箇所で撮った映像作品「どうだっていいのかもしれない」は、逆再生することで昇っているのか降りているのかわからなくなる効果を狙ったという。

また、ロープで川に区画を設け、木の枝や小石などロープに引っかかるもので生じる水のうねりや時間の変化を収めた写真作品(無題)などが発表された。これを撮ったらおもしろいんじゃないか、こう見せたら興味を引くんじゃないかという探究心からスタートした作品群だ。島袋氏からは、お金をかけていない点はおもしろいが、絵作りはきっちりしておくべきとの助言があった。背景に余計なものが映りこんでいたり、脚立が斜めに映っているケースがあったり、細部に雑さが見られるとの指摘。作品によっては既視感があるとも指摘した。鷲田氏は、表現に幅がある点を評価し、1点1点は繊細なので、今日のようにまとめて見せた方がやりたいことは伝わりやすいと述べた。ただし、自分がこれをどうしてもやりたいという切迫感が欠けているという。

次の発表者・日本画専攻の松尾匠さんは、自室を風船で満たした写真(In my room)や動画、特大サイズの風船を自分の口だけで膨らませる動画(ballon)、ミッキーマウスなどの有名なキャラクターの画像を加工した作品(Free mouse)などを発表。

まず鷲田氏が、松尾さん自身が抱える違和感やいらだちは感じられたが、もう少しのびのび作っていいと指摘。さらに、自分の環境に違和感があるのなら大学や日本画にこだわらずに今の環境を飛び出してもいいと大胆な助言を。「大学を辞めてしまえばものを作る人との接触がなくなってしまう」と答える松尾さんに、島袋氏が「作家がどうやって食べているか知りたかったら、外に出ないとわからない」とばっさり。作品は全体的に既視感があるが、風船をすべて自分の口で膨らませているという点がおもしろいのでプロセスに重きをおくなど工夫するよう助言した。松尾さんがかつて吹奏楽部でフルートをやっていたことに話が及ぶと、「肺活量を活かしたアーティストを目指したら?フルート+風船とか」。本気なのか冗談なのかわからない。講師二人のコメントを後ろで聞いていてハラハラした。20歳の青年には刺激が強すぎるというか、そこまで言って大丈夫なのか?と冷や汗をかく思い。だが自分自身をえぐることでしか作品が生まれないのだとしたら、他人からえぐられる経験もまた若者の糧になるのだろう。

中山幸乃さんは日常の光をテーマにした映像作品(無題)やアクリル板を重ねた作品「Essence」の写真を発表。

夜の街や薄暗い空間で灯る光の映像を集めてつなげた映像作品は静かなインパクトがあると感じ、個人的には好きだと思ったが、講師からは「白い帯が映っている」「映像を見せたいのか光を見せたいのかはっきりしない」と厳しい指摘が。「Essence」は、板の素材や形・サイズ・枚数、作品を設置した高さなどについて「なぜこの条件なのか?」という問いかけがあった。「Essence」は「本質」の意味だと解説する中山さんに対し、島袋氏が「『本質』ではタイトルはだめなの?そもそも本当に『本質』なのか」と問う場面も。そして、この発表者についても既視感がある点が問題視された。先行作品と“かぶらない”作品を生み出すためには数多くの作品を鑑賞するなど、知識の蓄積が欠かせないことがわかる。また、「こう」という思い込みをずらして、いろいろな方法を検討すべきことの大切さもまたわかってくる。それは自分の作品に「なぜこれを試したいのか」「なぜこれが気になるのか」「なぜこの方法なのか」「なぜこの物体なのか」という無数の「なぜ」をぶつける作業だ。

最近になってようやく自分のやりたいことが見えてきたという石丸圭汰さんは、車内から見た樹木に興味をそそられて車を降りて触ったところ、「自分の触りたいものはこれではなかった」と感じたところから制作を開始した「touch」を発表。長い木材の先端にシリコンをつけていろんなものを触ってみる試みを録画し、絵画とともに作品にした。

他に陶片の盗掘をテーマにしたビデオ作品「陶片を☆眠らせる☆プロジェクト」を発表した。島袋氏はビデオに残すことは“撮られている自分”を意識することで嘘っぽさが出ると忠告。「touch」で使用した木材は竹などではだめなのか追及すると共に、使用した木材をこの場に持ってきていないことを突いてプレゼン方法にも注文をつけた。鷲田氏は「touch」で木材を目の位置ではなく腰の位置に据えたのはなぜか尋ね、さらに「手で触りたいのか?目で触りたいのか?」という深い問いを投げかけた。島袋氏は石丸さんが日常で感じたことを流してしまわずに作品化した点を評価し、「満足した?」と石丸さんに尋ねた。満足していない、との返答に対して、「次の段階に行こう。美術は正しい返答より“おもしろい間違い”が勝つ。もうひとつ“おもしろい間違い”を犯してみよう」と助言した。

最後の発表者・田中壮一さんはインスタレーションと映像作品群を発表。パンドラの函から着想した参加型のインスタレーション「魅惑する甕」、髪に残ったシャンプーを容器に入れてそれでまた髪を洗うことを繰り返す映像パフォーマンス「act:wash」、豪雨災害後いっこうに原状回復されない場所でラジオ体操することで“場所に干渉”することを狙った映像パフォーマンス「ラヂオ体操」、影をテーマにした映像作品「square」など、作品の点数は本日の発表者で一番多い。

島袋氏は文法上の誤りを犯しやすく微細なニュアンスがわからない英語であえてタイトルをつけることに疑問を呈した。また、アートをやる大きな目的が欠落している印象を受けると指摘した。鷲田氏は方向性がバラバラで全体としてなにがやりたいのか捉えにくいと指摘。「act:wash」や「ラヂオ体操」はナンセンス映像という分野かもしれないが「で、なんだろう?」という疑問が拭えず、特に「ラヂオ体操」は豪雨災害とラジオ体操との接続がはっきりしないと苦言を呈した。受講生からは「自分の作品がなにに属しているのか考えているのか」という質問が出て、田中さんは特に限定していない旨回答した。

総評では、島袋氏から「今日見た作品のどれを明日覚えているかわからない」、鷲田氏から「とりあえずやらなきゃいけないから作った、という感じが出てしまっている」と厳しいコメントが出た。島袋氏は、“作品っぽいもの”を作るのは容易だが、本当の作品は実は作品っぽくないものだ、と論じた。さらに、大学に縛られず、先生にほめられないようなものを敢えて作っていくべきだとの助言があった。鷲田氏からは、自分の作っているものが自分にとってどういう意味があるのか追求してほしいとの注文があった。「ドライでビジネスライクなアーティスト像はあるのか?」という問いに対しては、島袋氏が「そういう感じで続けたいなら、やってみれば?」と答えた上で、参加した学生たちに問いかけた。

「みんな作家になりたいの?」

学生たちが静まり返る。「なろうと思ってなるものじゃないと感じている。自分の周囲の大学の先生も、なろうと思ってなったというより、“気づいたらなっていた”という感じだから」と答える学生もいた。講師二人が学校の先生と作家との収入源の違い(先生の場合は給料をもらい、作家は謝礼などで生計を立てていく)を説明し、アートに関わる方法としては作品の形態で発表する方法と論文の形態で発表する方法とがあり、双方を横断する仕事のやり方もある、とアドバイスがあった。
この光景を眺めながら、島袋氏からの問いかけに「そうですね、作家になるのも選択肢のひとつと考えています」とか答えてもいいのにな、と思う。もしかしたら、本当の本当に作家になる気など1ミリもないのかもしれないが、もし1ミリでもあるのなら、そう言ってしまえばいいのにな、と。そう答える権利は、アートを勉強し実際にアートに挑戦している彼らには当然あるし、口に出してしまうことで新しいなにかが始まる、ということもあるのだから。
今日という特別な1日が、学生たちの明日からの日常にどのような影響を及ぼすのだろう。数年後にこの日を振り返ってみたとき彼らがなにを思うだろう。内容の濃すぎる時間を過ごしたあと独特の疲労感を感じながら、ふと考えた。