2019年10月31日、首里城が火災で焼失した。
私自身は沖縄に何のゆかりもない。それでも、沖縄の文化財が辿ってきた過酷な道を思うとき、今回の件の衝撃は、筆舌に尽くしがたいものがある。
私がこの首里城を訪れたのはただ一度きり、高校の修学旅行のときであった。構内は多くの観光客で賑わっていた。赤瓦の朱が空に眩しく、正殿はとても新しく見え、歴史的な重みが感じられずはじめは少し面食らった。沖縄戦でここ首里も焼失したのは知ってはいたが、再建がこれほど最近であったのは不学にして知らなかったのだ。
しかし、古色漂う建物の滋味はなくとも、建物が新しいからこそ、在りし日の首里の姿をイメージすることができた。ハレの日の正装に身を包み、整列した官吏や厳めしい兵士たち、王府を訪れる江戸や朝鮮、中国からの使節たちの異国情緒豊かな姿。正殿を前に彼らが行き交う姿が目前に浮かんでくるようであった。
正殿の中に入って息を呑んだ。なんと壮麗なことか! まさに竜宮城のよう。原色をふんだんに使った色彩は本土ではあまり見かけず、海の隣のアジアの国々の影響を感じた。琉球が文化の交差点であったということを実感する。玉座の上の、朱と黄金が輝く「中山世土」の扁額の威容は、かつての琉球王国の繁栄を追想するのに十分だ。日本という今は同じ国の中に、自分が親しんだ文化とは異質なもうひとつの文化が、確かに実在していた。その手ざわりに感動し、絵葉書を沢山買い込んだ覚えがある。
首里城小史 焼失と再建、そして……
この仕事についてはじめて知ったことだが、私が見たあの壮麗な首里の姿は、沖縄の文化財の過酷な道の末に成ったものであった[1]。
江戸末期まで、琉球王・尚氏の居城として権勢を誇った首里城は、その裏で幾度も火災や破壊を経験した。明治政府が成立すると、政府は琉球王国を「沖縄県」とし、大日本帝国の一部とみなすという宣言を強引に発表し、軍を動員して城を明け渡させた。主を失った首里城は日本軍の駐屯所や学校施設に転用され、建物は破壊・改変され、数多の文化財や行政文書が流失した。一時は完全に解体撤去するという決議までなされたものの、伊東忠太など一部の知識人の反対もあり、1929(昭和4)年には当時の国宝に指定され、正殿の修理工事が行われた。
だが、ほどなく太平洋戦争が本格化する。日米最後の決戦として悲惨を極めた沖縄戦は、島全体を戦火に包み込んだ。首里城内も戦場になり、アメリカ軍の砲撃により、城の建物とそこに保存されていた文化財ほぼすべてが炎上し、灰燼に帰してしまった。王族や名家に伝わる宝物や文化財のみならず、城下の村々も占領・蹂躙され、草の根で伝えられていた多くの民俗資料が永久に失われた(現在、東京国立博物館や沖縄県内の博物館に保管されている文化財や民俗資料は、その戦火を免れたごくわずかのものである)。時代を超え、多くの人びとに守り伝えられてきたはずの琉球王国の遺品は、この戦争で実にその9割が失われたと言われている[2]。もし、それらが全て残されて、沖縄の人びとのもとに在ったとしたら……。在りし日の王国の華やかな文化が今よりずっと鮮明に蘇ってきたことだろう。それはどれほど素晴らしいものであったことだろうか。
戦後の首里城の再建も困難を極めたという。往時の姿を記録した資料や文書のほとんどが失われるなか、行政関係者や研究者、地域の人びとの努力のもと、残されたわずかな資料や写真、遺構の発掘調査結果などをつなぎ合わせながら時代考証と復元が進められていった。外壁や瓦の色彩など記録が失われているところは、地域の古老や昭和初期の修理に関わった人に聞き取りを行ったり、当時の建造技術・装飾技術の再現を試みたり、また中国や韓国の時代・様式の近い建築を参考にするなどして、考証を重ねたという。
こうして、首里城が再びその姿を地上に蘇らせたのは、実に終戦から半世紀後のことであった。戦後から今なお、アメリカや日本政府からのくびきを甘受せざるを得ない沖縄の人びとにとって、あの目に鮮やかな首里の城の存在がどれだけ誇りであったか、アイデンティティと直結していていたことか……。彼らにとって首里城の再建は、まさに悲願であったに違いない[3]。
火災後のニュース映像に映る、炭と化した城を呆然と見上げる家族、カメラに背を向け肩を落とす人々の姿は、再び心の拠り所を失った沖縄の人びとの余りある悲しみを如実に物語っていた。幸いというべきか、日本のみならず世界中から惜しむ声が寄せられ、再建へ向けて既に10億円以上の寄付金が集まっているというニュースもある。ただ、道のりはまだまだ遠いだろう。今はただ、地域の人びとや専門家、行政の知識と努力が再び結集され、少しでも早くかつての美しい姿を沖縄の地で取り戻してほしいと願うほかない。
消えゆく文化財
21世紀に入ってから、つと天災や人災による文化財の喪失の方に接することが増えたように感じる。東日本大震災や熊本地震での、博物館や夥しい数の文化財の被災。とりわけ建物全壊と資料の大多数の流出・損傷のみならず、6名の学芸員全員が犠牲となった陸前高田市立博物館の件は、衝撃でしかなかった[4]。世界的な観光名所でもあった、ブラジルの国立博物館や、ノートルダム大聖堂の火災。内戦によるイラクやシリアでの文化財の大破壊。さらに台風19号と立て続けに起こった豪雨の被害で、川崎市民ミュージアムのやホキ美術館収蔵庫が水没したのは今秋の出来事である。その息をつく間もないように起きた今回の火災……。文化財の保全に関わっている当事者としては、全てあまりにも辛い、耳を覆いたくなるような出来事だ。
これらの事件は、博物館の収蔵庫で万全とも思える管理を行っていたり、保存のための最新の技術や巨額の経費を常に通じていたとしても、決してその永続性は保証されないのだという厳然たる事実を、目の前に突き付けられているかのようである。他人事のような言い方になるが、私の所属する館とて明日はどうなるか分からない。今年佐賀を襲った豪雨は、県内各地に多くの被害をもたらした。幸い、今回は県立博物館・美術館には特段の被害はなかったし、もちろん日頃から災害の対策にはできうる限りの措置を講じているつもりだ。それでも、である。
文化財がつなぐ縁 ひと、記憶、時代
奇しくも、私自身も文化財被災の当事者の一端となるできごとがあった。
今年の9月から11月にかけて美術館で開催された特別展「超写実展 リアルを越えた絵画」(主催:サガテレビ・ホキ美術館)。本展の開催中に、出品作品の大半の所蔵元である千葉市のホキ美術館が、豪雨により、地下の収蔵庫が浸水するという被害を受けたのだ。現代写実絵画の専門館として名高い同館だが、館を代表する多くの作品が水損し、館は閉鎖された。しかし、コレクションの一部を佐賀県立美術館でお借りし展示していたことで、代表作のいくつかが被害を免れたのだ。これは全くの偶然の出来事ではあったが、結果として同館の作品を守ることにつながった。展覧会後に作品をお返しするときには、保存修復担当の方からお礼さえ言われた。
博物館・美術館のコレクションは、その館で働く人にとっては我が子のような、その館を愛してくださるお客様や地域の人びとにとっては、友達のような存在であると私は思う。コレクションや文化財を介して、遠く離れた館や人びとがつながり、その価値や美しさをたのしみ、時にはその喪失を一緒に悲しむ。このような場面に遭遇したとき、コレクションや文化財がいかに多くの人びとの思いによって今日まで育まれてきたかということを実感する。
時を超え、人から人へ伝えられてきた文化財や美術品が今、私たちの目の前に存在し得ているのは、当たり前のようでいて、その実奇跡としか言いようのないことなのだ。その陰には、様々な人びとや組織の努力、文化財に対する愛がある。
文化財は、単に人びとや観光客に開陳したり、外貨を獲得したりするためだけのものではない。なによりもそれらは、その土地に暮らす、文化を受け継いできた人びとのために存在するものだと、と強く思う。首里城を管理する沖縄美ら海財団は、火災後、被害の詳細な状況と収蔵資料の安否などの情報を積極的に公開してきた。それは、首里を案じる全ての人びとへの誠実な姿勢であるとともに、誰よりもこれらの宝物を慈しみ、自文化の誇りとしてきた沖縄の人びとへのメッセージでもあるように感じる。
古い記憶を乗せ、過去といまを繋ぎ、人びとのアイデンティティの拠り所となってきた“もの”たちの重要性は、文化のグローバル化と均質化が加速度的に進むこれから、ますます重要になっていくだろう。首里城の火災がもたらした教訓は、私たちの文化に生まれた芸術や文化財を、博物館・美術館をはじめ、社会ぐるみで守り伝えていかなければいけないということ、そしてその価値や重要性を一人ひとりが今一度認識すべきであるということなのではないかと感じた。二度とない歴史や文化の記憶を、未来の世代へとよりよい状態で引き継いでいくために。
[1] 以下の首里城の沿革は、『琉球王府首里城』(ぎょうせい、1993年)、『うるま ちゅら島 琉球』(九州国立博物館展覧会図録、2006年)、首里城公園Webサイト「首里城について」のページの各記述を参考にした。
[2] 今や沖縄土産の代表格である紅型も、この時に型紙や道具のほとんどが失われた。一時は完全に途絶えていた技術を、戦後に王朝時代から続く紅型宗家の二家の当代の尽力で復活させたという(「琉球びんがた事業協同組合」Webサイト「琉球びんがたの歴史」より)。
[3] 首里城公園管理センターのWebサイトでは、「約450年にわたる琉球王国の王府としての首里城復元は、県民の長年の悲願でありました」とある(首里城公園Webサイト「首里城基金」のページより)。
[4] 陸前高田市立博物館は東日本大震災の津波の被害を受け、館内はすべて水没、職員5名が死亡、1名が行方不明という甚大な被害を被った(陸前高田市海と貝のミュージアム、陸前高田市図書館も同程度の被害があり、市内全館で生き残った学芸員は一人のみであったという)。館蔵資料の多くは流出し、館内に残った資料も全て水損した。その後、博物館の元職員や岩手県内の博物館学芸員などが中心となり、残された資料のレスキューを行い、修復やクリーニングを進めている。だが、館は取り壊され、再開のめどは未だ立っていない。