書評 二人のおっちゃんが生み出した「奇跡」『空をゆく巨人』

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  • アバター画像   BY  秋山沙也子 佐賀県立美術館学芸員。この道まだ3年目、佐賀に暮らして5年目。

前回に引き続き、いわきを舞台にしたもう一冊の本、『空をゆく巨人』を紹介したい。

蔡国強(さい・こくきょう、中国読みでツァイ・グオチャン)といえば、いまや美術界で知らぬ者はいない、現代アート界を代表するビッグ・アーティストだ。しかし、この物語には蔡氏だけではない、もう一人の主人公がいる。

 志賀忠重氏。小松氏と同じく、今日までいわき市に暮らす彼は、蔡氏の親友であり、その才能と作品のかけがえのない理解者、援助者のひとりである。そして彼自身が「いわき」というフィールドで実践を行うアクティビストであり、もう一人の「アーティスト」でもあるのだ。この本は、そんな二人の生きざまに惹かれた筆者が、彼らの出会いと交流の軌跡を追ったドキュメンタリーである。


 日本と中国――言葉も境遇も全く違う環境で育った二人は、1988年にいわきの地で出会う。かたや文化統制の嵐が吹き荒れる故国中国を飛び出し、異国に武者修行にやってきたばかりのアーティスト。かたや持ち前の発想力とDIY精神で、何でも商売にしてしまう根っからの実業家。しかし、「火薬画」を描くという型破りな中国人の若者に、芸術には疎いという志賀氏は不思議と魅了されていく。そして蔡氏もまた、志賀氏や彼を取り巻くいわきの人々の存在に後押しされ、精力的に作品を発表していき、少しずつ認められるようになる。

 いわき市立美術館での個展のために1993年に始動した「地平線プロジェクト」で蔡氏は、いわきの海の水平線に火花を走らせ、「地球の輪郭」を照らし出そうと考えた。決して相容れるはずもない炎と水―――。この無謀ともいえる構想を実現するため、志賀氏とその友人たちは方々を駆け回り、ツテを頼って作戦を練った。

いわきの浜に打ち捨てられた廃船を作品に加えることにした一同は、力を合わせて巨大な船の亡骸を地中から引き上げる。そのさまは、まるで村を挙げての一大イベントであった昔のクジラ漁さながらだ。模索と失敗を乗り越えて見事に沖合を走り抜けた「地球の輪郭」は、その後も蔡氏といわきの人々の心とを繋ぐ絆ともなった。

この“いわきの船”は代替わりをしながら、蔡国強の名が知られるのに伴って、世界中の美術館に“曳航”される、まさに彼の代表作ともいえる存在に育っていった。そしてこのプロジェクトでタッグを組んだ志賀氏たち「いわきチーム」もまた、船の組立を担う専門家集団として、蔡氏に招かれ、世界各地を飛び回ることとなる。「船」は蔡氏にとって、故郷の東洋とアートの中心である西洋をつなぎ、異なる文化や人びとの交流を象徴する存在だ。まさにこの船は、彼らを新しい世界へ導く水先案内となったのだ。


2011年3月11日、東北地方を巨大な地震が襲う。震災、津波、原発事故、それに続く風評被害や「復興」に伴う地域の断裂は、『新復興論』で小松氏が描いたように、深い深い傷を残した。疲弊する故郷に居ても立っても居られなくなった志賀氏は、自分自身でプロジェクトを立ち上げてしまう――その名も「いわき万本桜プロジェクト」。いわきの山に一万本の桜を植え、傷ついた人びとの心を潤す場所を作ろうというものだった。

プロジェクトのウェブサイトに掲載された動画[1]を見ると、それがいかに途方もない目論見かということがよく分かる。見渡す限りの山林の小さな一角を切り開き、桜の苗木を一本一本手植えする…気の遠くなるようなこのスケールは、辛く苦しい日常のなかに、希望を未来へつなぎ続ける志賀氏なりの営みだった。志賀氏のもとには、切実な思いに駆られて、桜を植えに来る人々がひっきりなしにやってきた。

旧友たちを案じていわきにやってきた蔡氏は、山の中に一軒の「美術館」を建てることを思いつく。壁も作品もない、地を這う龍のような形をした風変わりな美術館。山から木を切り出し、自力で作り上げた彼らの美術館は、「いわき回廊美術館」と名付けられ、桜を植えるためにやってきた人々が、つかのま集い、憩い、自分自身と向き合い心を整理する場所となった。

いわきの桜とアートは、いつしか、著者をはじめ、さまざまな人の「小さな故郷」になっていった――。


人と人との出会いから芸術が生まれ、また芸術が人と人とをつなぐ。このシンプルながら根源的な事実を、この本は教えてくれる。対話し、感情の機微や美しさを分かち合うことによって、人は心を動かし、新しい世界を知り、そこに導かれていく。それは人が人として在るためになくてはならないことではないだろうか。世界で猛威を振るうコロナウイルス禍によって、まさにそのような機会を奪われている今だからこそ、痛感している。

蔡の作品は、国籍や年代を問わず、人の心を打つ強さがある。オブジェから環境まであらゆる素材で表現をする現代アートの作品には、しばしば多くの協力者が必要となる。膨大な資金とリソースを投入してシステマティックに制作が進められるのが普通だ。しかし蔡氏は大胆不敵な冒険家のように、周囲の人や環境を巻き込みながら実験をする。無数の分岐点や可能性、成功と失敗…異分子や不協和音を含むそれらすべてを作品のうちに取り込んでしまうからこそ、蔡氏の作品はいっそう深く普遍的な射程を宿すのだ。

昨年秋に参加した、博物館関係者の国際会議「ICOM京都」で、基調講演をつとめたひとりが蔡氏だった。「私の美術館春秋」という演題で、世界各地のギャラリーや美術館で行われたパフォーマンスやインスタレーションについて次々と紹介するなかでも、「いわき回廊美術館」、そして「いわきの友人」のことを語る口調は、ひときわ誇らしげだったように感じる。

いわきのプロジェクトで、志賀氏と仲間たちは時には無茶としか思えない蔡氏からの依頼を、驚きあきれつつ笑って引き受ける。それを可能にしていたのは、彼らが蔡氏の人間性に惹かれ、彼とともにまだ見ぬ世界を見てみたいとワクワクしていたからであろう。そしてほかならぬ蔡氏も、この友人たちのことを心から信頼し、敬愛していた。それはのちに彼が思い出のいわきの地に「美術館」を贈ったことからもわかる。

蔡氏と志賀氏の立場はいつも対等だ。気兼ねせず、真っ直ぐに意見をぶつけ合い、そして認め合う。その根底にあるのは、相手への尊敬と愛情だ。共に汗を流し、協力し合ってものを作り、そのあとにはうまい飯を囲む(彼らが一緒に食べるご飯の描写の、どれも美味しそうなこと!)。この格別の時間が、蔡国強という巨星、そして多くの人びとにとっての「小さな故郷」、いわきの桜の山を作り出したのだろう[2]

今年の春に、佐賀市大和町で見た桃の花。
花には、人の心を和らげる力があるようだ。この時も桃の木々を囲んで、地元の人たちが宴会やバンドの合奏をしていた

相次ぐ震災や豪雨、感染症の大流行。迷走する政治…。最近、当たり前にあるような日常とは思った以上にもろく、壊れやすいのだということをとみに感じる。でも、だからこそ、大真面目に夢や希望を語り、人の可能性を信じ切ることのできる彼らのような大人がこの時代にいて欲しいのだ。「20年後も、30年後の未来の子供達に、山一面の桜を見てもらえるようにしよう[3]

いつの日か、私自身もいわきの山で一本の桜の木を植えることができればいいなと願っている。


[1] 動画「世界一の桜の名所に!いわき万本桜プロジェクト」(「いわき万本桜Webサイト」 https://www.mansaku99.com/ より)

[2] 筆者の川内氏は、その後も展覧会ごとに蔡氏が「いわきチーム」を招いたのは、忙しい蔡氏が、展覧会を口実としていわきの友人たちとの旧交を温める場を持ちたかったからではないか、と分析している。

[3] 「いわき万本桜Webサイト」の「代表メッセージ」 https://www.mansaku99.com/%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8 より引用。