交換日記が示す三人の軌跡。呼応 八頭司昴・川植隆一郎の二人展

八頭司昴と川植隆一郎の二人展が、一年ぶりに画廊 憩ひ(やすらい)で開催されている。二人の持ち味は違うが、絵を見る者に、“あなたの物の見方は正しいの?あなたの見方が唯一無二の見方なの?”と優しく揺さぶりをかけてくる点が共通している。鑑賞した後は、自分の価値観が一周回して新しい世界が始まったような爽快感があった。

交換日記から始まった展覧会だという。一年前の展覧会では八頭司と川植の交換日記だったが、今回はキュレーターの茶圓彩が二人の作家それぞれと交換日記を行った。交換日記、とは、古臭くも懐かしい響きである。成人した男女間で行われるのがなんとも新鮮だ。

ページをめくれば昨年の豪雨災害への言及もあるし、川植のアメリカ滞在の様子も描かれ、さらにはコロナウィルスの問題が世間を次第に飲み込んでいく様子が記録されている。電車の中で書いているため字が乱れているなど臨場感があるのも楽しい。日常を切り取って発信する行為はSNSで多くの人がやっているが、手書き文字の交換日記では、日常を疾走する3人の様子がより生々しく伝わってくる。

茶圓は八頭司と川植に疑問を投げかける。なぜ絵を描くのか、絵を描くとはどういうことなのか。一方で、自分の思い出やその日の出来事を披露し、自分の周囲に、社会に、そして自分の内面に洞察の目を向ける。そんな茶圓に対して八頭司と川植のそれぞれが文章と絵で応え、別の疑問を返していく。一冊のノートを通した交流で、お互いに新しいものの見方に出会い、緩やかに変化が起きていることが伝わってくる。川植のアメリカ滞在中に自然発生したという、一見一筆書きのような、一本の線を長く伸ばして形を作っていく手法も日記中に登場する。

書きたいことが尽きず、とめどなく溢れるような茶圓の文章は、ときに絵や図で補足されているが、茶圓が基本的には文章を構成することで世界を理解していくタイプであることが想像される。力みない文字で紡がれる八頭司の文章と、考えつつ慎重に歩を進めるような川植の文章には、おそらく自然な流れなのだろう、絵が添えられていて、やはり彼らにとって自分を表現するのに絵が不可欠なツールであることがわかる。

こんな具合に、読み手は交換日記のページをめくりながら、3人の特徴に思いを馳せるのだが、実は交換日記で3人のすべてを知ることはできない。読み手の描く3人の像と、実際の3人に果たしてどんな乖離があるのか。そういう意味で、展示された2冊の日記帳は小さなワンダーランドである。

気になった作品をいくつか紹介してみる。

家屋を清潔に保つ義務がある主婦にとっては、ときに屋内の観葉植物の存在さえ負担に感じられる。しかし、日常の一部がもしこのように見えたとしたら。この絵が家の壁に掛かっていたとしたら、……埃を払う、掃除機をかける、整理整頓を試みるといった、永遠に終わることのないうんざりする営みに、違う視点を持ち込めないだろうか。

どういうシチュエーションだろうか。窓の外も気になる。靴下の表現が絵の全体を締めている。

星は空から降るとは限らない。混沌の中にユーモアが光る。

クワガタを見つめる時間。クワガタには災難かもしれないが、生き物好きにならきっとわかる、生き物に見入ってしまう時間。

3時間ほどで書き上げたというドローイング集には、作家のリアルが詰まっている。疾走感のある筆致を追いながら、作家の意識の流れを想像するのも楽しい。

八頭司の静、川植の動。と、単純に分類することはできない。静と動、両方の要素がそれぞれにある。

今更言及するまでもないことだが、世はコロナウィルスで揺らいでいる。自分の信用していた世界が崩れ始めている感覚を日々味わっている。こういう抽象的で感傷的な表現が、現実の何物をも正確に映していないことをわかってはいても、尚、そんなことを呟きたくなる現状。

こんな世相でアートかよ、と言うこともできる。だが、交換日記を通じて起きた三人の変化に思いを馳せた後では、こんな世相でアートだよ、と言ってみたくなる。人々の日常生活が大きく制限され、ギャラリーや美術館を訪れることなど到底望めないような事態になっている都市もある、今このときに、である。

多くの人間がアートから遠ざかっていても、アートは現在進行中なのだ。この状況で目を見開き、耳をそばだてている作家たちが、自分の内面にどんなものを育てているのか。それがいつどのような形で世間に公表されるのか。それが密かな楽しみである。

(敬称略)

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