ズルズルオ写真展-影のようにそばにいるのに、見過ごしている景色

水没して忘れ去られた自転車。花の見ごろが終わって人々に見向きもされなくなったであろうヒマワリ畑。閉じられたシャッターに貼られた「しばらく休みます」の文字。合成樹脂製の波板に打ち付けられた釘の、抜け落ちかけている姿。ズルズルオ写真展で白黒の写真たちを眺めながら、考え込んでしまった。

写真展の最終日に訪れる時点で既に他のぽたりすとがレポートを投稿していたし(「ズル ズルオ」初の写真展。―道ばたの影から声を聴く―)、身内を褒めるようで恐縮だが彼女のレポートは素晴らしかったのもあって、私自身がレポートを書く気はなかった。カメラも持参せずに会場に足を踏み入れ、わずか数分のうちに、レポートは書かないぞという決意をあっさり翻させられた次第である。私は私で感じたことを書いてみたくなった。

なお、この日に会場で偶然出会ったぽたりすと(彼は二回目の来場だった)も、写真と本気で向き合う者ならではの感性でレポートしているので、ぜひそちらもご覧いただきたい(いつまでも空にできないゴミ箱のようなもの)。

私は日常的に文章を書いて写真を撮る。申し訳ないが、写真の方はオマケのようなものだ。文章だけでは伝わらないから、つまり必要があるから撮っているのであって、私の本分は文章である。基本的に、嘘を書くことはない。自分が思ってもいないこと、感じてもいないことを書くことだけは避けたいと思っている。例えば、何の魅力も感じない事柄に対して魅力的だと褒めたり、退屈だと感じるものをおもしろいと力説したりするようなことはしたことがない。つもりである。

それでも白黒の写真群を前に考え込んでしまったのは、見えているはずのものをどんどん切り落として自分は文章を紡いでいる、写真を撮る際も、気づいていいはずのことに気づいていないし、気づいた場合もわざとのように見過ごして撮っている、ということを突き付けられたからであった。

ズルズルオがしばしば被写体にしているのは、街なかにうち捨てられた残骸だ。かつては人の役に立っていた道具が、今や誰にとっても不要で意味のない物体となって世界にとり残されている。こういうものは誰しも日常的に目にしているはずであるが、ほとんどの人間が記憶にも記録にもとどめない。私たちのそばにいつもあるのに忘れている、影のような存在だ。

行きかう人や車、建物、水面、空の写真にも、「街や空がこういう表情をすることがあるんだ」と、はっとさせられる。寂しいとも表現できるし、静かに澄み切っているとも表現できる。彼以外の人間がまったく気づかない瞬間、あるいはわざとのように感覚を鈍麻させて無視した瞬間をズルズルオは見過ごさない。

猫の写真もあるが、「可愛いー」とか「癒されるー」とかで済まされない余韻がそこには漂っている。可愛いだけが猫の特徴ではないんだよ、とそっと教えてくれるような。見栄えの良いものや便利なシステムだけで構成されているわけではないこの世界に猫もまた生きている、というところだろうか。

カメラは道具だと私は思っている。前述のように、必要があるから撮っている。どうすれば映える写真が撮れるか、にわか仕込みの知識が少しだけある。使っているのはデジタルカメラで、私が切り取った世界をどういう仕組みでデータ化しているのかまったく理解していない。もちろんフィルムカメラの仕組みもよく知らない。ただただ便利だからカメラを使っている。自分自身のそういうカメラとの向き合い方についても考えさせられた。

一人の人間にここまで内省を促すズルズルオの写真の特徴をひとことで表すとすれば、何だろう。誠実といっても足りないし、繊細というのも当たっていない。ただ、人を惹きつける力がある。会場には写真に見入る人の姿が多くあった。無視されていい存在を被写体にしていながら、ズルズルオの写真を無視することは決してできない。

嘘が混じらないように慎重に、かつ感じたことをとりこぼさないように素早く文章にしたつもりである。だが、自分の感じたことすべてを表現できたかどうかは、いまひとつ自信がない。スマホで撮った写真は完全に失敗だなと感じるばかりである。

(敬称略)