何かの名前を知ることで、その存在が確かになることがあります。何かを作るという行為は、まだ呼ばれたことのない
名前を呼ぶようなことかもしれません。(近藤聡乃/「近藤聡乃展 呼ばれたことのない名前」に寄せて)
新型コロナウィルスで社会が一変してしまうことなどまったく予想していなかった昨年の11月、福岡市中央区天神の三菱地所アルティアムに「近藤聡乃展 呼ばれたことのない名前」を見に行ったことが無性に思い出される。
近藤聡乃の名前が初めての人は、本人の公式ホームページAkino Kondohを見た方が話が早いかと思う。スケッチやドローイング、過去の展示の様子などを確認できるし、彼女が制作したアニメーションのダイジェスト版を閲覧できる。
近藤聡乃、1980年千葉県生まれ。2003年多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。文化庁新進芸術家海外留学制度、ポーラ美術振興財団の助成を受け、2008年よりニューヨーク在住。アニメーション、マンガ、絵画、エッセイなどを手がけ、複数の分野にファンを持つ。
以上、三菱地所アルティアム「近藤聡乃展 呼ばれたことのない名前」パンフレットの文章を拾ってみた。
この近藤聡乃の初めての回顧展として開かれたのが、三菱地所アルティアムの「近藤聡乃展」だった。
可愛いのにどこかおどろおどろしい、きれいなのにどこか禍々しい。そして心の奥底をさっとさらってゆく力が近藤の作品にはある。
私が近藤聡乃を知ったきっかけは、東京都港区の森美術館でアニメーションを見たことであった。巨大なスクリーンに映し出された《てんとう虫のおとむらい》のインパクトは例えようもなかった。
肉感的な体の持ち主でありながら、おかっぱ頭も相まってか少女のように見える女性(近藤本人の言によると、少女らしい)が複数の自分と共にくるくると画面を舞い、そこにてんとう虫のイメージが重なっていく。うっかりてんとう虫を殺してしまったことを契機に始まる、美しく、不思議で、少し不気味ですらある世界。
時折挟まれる、死体のように沈む場面は罪悪感を、そしてスカートの裏側にてんとう虫のようなボタンを延々と縫い付け続ける場面はタイトルの“おとむらい”を意味する。白と黒と赤を基調とした、流れるような場面展開は、それまで私が持っていたアニメーションのイメージを覆し、すっかり私の心を奪った。
三菱地所アルティアムにおいて回顧展が開かれたのは、その翌年だ。本人が登場したオープニングレセプションもトークイベントも終わった後だったが、展覧会の内容は充分すぎるほどのインパクトを私に与えた。
高校時代、近藤が初めて描いたというマンガ「女子校生活のしおり」はレトロな可愛さに満ちていながら甘い方向には流れていない。日常生活の何気ない一コマを拾っているはずなのにどこか奇妙で、もやもやと読者の心にひっかかる感じ。この当時の近藤は早くも独自の世界観を確立しているように見えた。
《電車かもしれない》や《KiyaKiya》のアニメーションの印象は鮮やかだったし、美しい絵画作品にも満足し、連載中のマンガ『ニューヨークで考え中』『A子さんの恋人』にも興味を引かれた。
もちろん《てんとう虫のおとむらい》に再会できたのも嬉しかった。
その日アルティアムで購入したのが『新版 近藤聡乃エッセイ集 不思議というには地味な話』だ。一読して、“こういう人”だからああいう絵画作品やアニメーションが生みだせるのだ、と納得した。
自分の日常をさらさらと気負いなく書いている印象を受けるが、ときに驚くような珍体験が披露され、しかも日常を書くにしろ珍体験を書くにしろ「そこ気になる?」「そう解釈する?」と驚いてしまうような独特の感性が発揮されている。果物が好きではなく、その理由をうまく説明できずにいたが、あるとき「果物は死んだ動物っぽい」と思い至った、だとか。女性の水死体を遠目に目撃するという体験をした際、近所の汚い川に豆腐が流れていたという昔聞いた話を思い出して豆腐と女性のイメージが重なった、だとか。
近藤には、幼い頃の記憶が鮮明に残っているらしい。とはいえ、記憶ほどあてにならないものはない。記憶は変容していくものである。「あの時、こういうことが起こった」という記憶は果たして真実たりえるだろうか?後から脚色されたものである可能性はないのか?近藤はそういう、記憶というものの信用ならなさ・あやふやさを熟知した上で、そのあやふやで何ひとつ正しくないかもしれない世界で自由に遊んでいるように見える。
最近になって、近藤のマンガ家としてのデビュー作「小林加代子」(2000年)やマンガ版「てんとう虫のおとむらい」(2003年)を収めた『はこにわ虫』を購入したが、やはり面白い。20年近く前の作品なのに、不安の増すこの時代に読んでみるのにふさわしいように感じられるのはなぜだろう。
それぞれが抱えていた「世の中ってのはこういうものだ」という思い込みが、がらがらと崩れていく時代に、そういう思い込みの無意味さにとうの昔から気づいていそうな近藤の作品に触れると安心する。そんなところだろうか。
そもそも、どこか不穏さの漂う近藤の作品の本質は癒しだと勝手に感じている。
コロナ禍のニューヨークで近藤がどのような生活をし、どんなことを感じているか……それは第1巻を買ったばかりの『ニューヨークで考え中』(電子書籍)の続きを購入していけばわかるはず。少しずつ買い揃えるのが楽しみである。