さようなら、原美術館 -「光-呼吸 時をすくう5人」-

  • report
  • アバター画像   BY  秋山沙也子 佐賀県立美術館学芸員。この道まだ3年目、佐賀に暮らして5年目。
原美術館外観

感染症が依然として猛威を振るい、芸術文化活動も全国的に冷え込んだままの2020年末。「東京都の新規感染者が800名を超えた」のニュースが舞い込む中、東京に乗り込んだ。こんな状況でもどうしても今、行く必要があった。原美術館にお別れを言うためである。

品川高輪台の住宅街の中にひっそりと建つ小さな美術館。実業家である原邦造の私邸を改装したこの美術館は、原家のアルカンシエール美術財団の運営で、1979年の開館から40年にわたり、国内でも先駆的に現代アート作品を収集・紹介してきた館として、独自の存在感を放ち続けてきた。

この歴史ある美術館が、施設老朽化のため閉館を決定したという一報が飛び込んできたのは、2018年末のことであった。その当時は2020年末に閉館を予定していたが、全国的なコロナウイルス感染症の流行の煽りを受けて、展覧会の予定と閉館時期が2021年1月まで延期されたのである。

私がこの原美術館に初めて出会ったのは、中学二年生、14歳の時だ。何の予備知識もなく足を踏み入れた洋館の中に突然現れた、白いタイルの部屋。これのどこが「作品」なの? いったい何を表現しているのか分からなかったけれど、それまでの価値観がどこか根底から揺さぶられるような、強烈な印象を受けたのを憶えている。ジャン・ピエール=レイノーの《ゼロの空間》という作品だった。そして暗室の中に、無数のデジタル数字が明滅する摩訶不思議な空間、宮島達男の《時の蘇生》。まるで胎内か宇宙に放り出されたかのようだった。このとき、それまで親しんできた絵や工作といった手法の他に、五感を揺さぶり、もっと異質で抽象的な感覚を表現できる手段が、美術の世界にあるということを知った。

この原美術館との出会いは、見えないところから私の人生を動かし、その後大学で現代アートを学ぶ、そして今の仕事に携わるきっかけを作った。間違いなく、私の原点と言っていい場所のひとつである。

大学生になると、事あるたびに同館の企画展を訪れた。時には友人たちと、時にはひとりで。同館では常に意欲的な企画展が開催されていた。建築家・渡辺仁の手による建物の美しさもさることながら、その中に配置された作品たちは室内の光や空間と共鳴し、まるで呼吸をしているかのように生き生きと立ち現れた。原美術館は同時代で活躍中のアーティストに出会える場所となり、美術館自身も、作品と呼応し合っていつも新しい表情を見せてくれた。

「光―呼吸 時をすくう5人」と題された同館ラストの展覧会は、先行きの見えない情勢に世界が呑み込まれつつある今、つい見過ごしてしまうような日々のささやかな出来事や感情や掬い、改めて心に留め置くことはできないかという企画者の思いのもと、美術館にゆかりが深く、身近に在る光景や感情の機微に光をあて続けている5名の作家を特集している。

本展は感染拡大防止対策として、事前予約制の厳格な入場制限が付されていた。館に到着したのは予約した時間の40分前。ぐるりと館の外観写真を撮り終えると、やることがなくなって入口前でドングリを拾う。原美術館を囲む庭園の中には巨木が林立しており、さながら小さな林のようだ。この木がドングリを実らす木であったことに初めて気づいた。大都会の真ん中のエアポケットのような空間の中、はるか上空を風がさらさらと流れていく。美術館にまつわるさまざまな思い出が蘇り、記憶が解きほぐされていく。早くも感情がリフレッシュされたような気分になる。

原美術館の中庭にある大木は、実はドングリのなる木だった

5名の出展作家のうち、城戸保(きど たもつ)、今井智己(いまい ともき)、佐藤時啓(さとう ときひろ)の3名は写真を表現手段としているアーティストだ。城戸保はつい見過ごしてしまいそうになる日常的な情景、街角や郊外の風景をつぶさに拾い上げる。原色に近い色に補正された光あふれる写真たちは、いつか白昼夢で出会った光景をに再開したかのような、感傷的な気分を呼び起こす。今井智己は、原発事故を起こした福島第一原子力発電所から30km圏内の山頂から原発の方向を撮影する《Semicircle Law》という作品群を今日まで発表し続けている。事故とともに廃墟と化した「空虚な中心」、うつろなその場所からの負の引力を、周りの地域が今でも受け続けていることを、今井の静謐な写真は語る。併映される映像作品には、事故の記憶が忘れ去られようとしているなか、ひとときも足をとどめず刻々と移りゆく時間のさまが、季節の変化や繁茂する自然の姿を通して記録されている。

佐藤時啓は長時間露光の技法を用い、光の表現を探求する『光―呼吸』シリーズで知られる作家だ。本シリーズを原美術館で撮影した連作《光―呼吸 Harabi》(2020)では、夜の美術館の床いっぱいに奔流のごとく溢れる光の光景から、私はガルシア=マルケスの短編小説『光は水のよう』を思い出した。光の軌跡はペンライトを持った佐藤自身の動きを示しているが、原美術館の歴史のなかでここを訪れた無数のお客様の記憶を封じているようにも見えてくる。モノクロの銀塩写真に閉じ込められた美術館の肌理が艶やかだ。

映像作家の佐藤雅晴(さとう まさはる)は、現実の映像の一部にトレースしたアニメーションをしのび込ませる手法を得意とする。日常の風景の一部が突然リアルなアニメーションにすり替わるさまは、見る者の知覚を揺さぶり、混乱させる。人間の記憶の不完全さや映像のフィクション性を告発しつつ、忘れられた記憶の蓋をそっと開くかのような作品である。香港出身のアーティスト、リー・キット(Lee Kit)は、その土地の風土や展示空間から着想を得て、詩的で繊細な作品をつくり出している。本展の展示作品《Flowers》(2018)は、プロジェクターから発せられる人工の光と美術館の窓から差し込む自然光や木漏れ日がひそやかにハミングし合うような作品だ。ささやかなインスタレーションだが、空間や光に対する鋭敏な感覚を呼び起こす不思議な磁場を備えている。

いずれの作家も作品の中に原美術館とのコラボレーションを忍び込ませており、そこも本展の見どころだ。そして最後の展覧会にかかわらず、館内は全面撮影禁止となっていた。時代の趨勢に逆行しているようにも思えるが、見過ごしていた小さきもの、繊細なものを再び拾い上げるというこの展覧会のコンセプトにはふさわしい。レイノーの白い部屋にも、宮島の《時の蘇生》にも、しっかりと向き合い、別れを言うことができた。詩情あふれる作品群、そして美術館の最後の光景を、心に深く刻み付ける。この小さな美術館は、その中で光彩を放った作品の数々とともに、この先も来訪者ひとりひとりの心に生き続けることだろう。

館内の常設作品のほとんどは、群馬県にある同館の姉妹館、原美術館ARCへ移設され、受け継がれるという。もう、この美術館に来ることができないのは、この上なく寂しいけれど、私、そしてきっと他にも沢山の人たちの人生を導いてくれた美術館と作品たちに、今は心からの感謝を捧げたい。