描くことと距離の遠さと -久留米市美術館「生誕130年記念 髙島野十郎展」-

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  • アバター画像   BY  秋山沙也子 佐賀県立美術館学芸員。この道まだ3年目、佐賀に暮らして5年目。

地元福岡を中心に「写実の画家」「蝋燭の画家」などとして知られる洋画家、髙島野十郎。しかし以前は名実ともに忘れられた画家であったという。彼の絵を見出した福岡県立美術館の学芸員の方がそのキャリアを賭して彼の作品の追跡と研究を続け、ようやく彼の人生と数々の作品に光が当たったのである。
この春、彼の出身地・久留米で大規模な回顧展「生誕130年記念 髙島野十郎展」(2021年1月20日~4月4日)が催された。今回はその展覧会の様子をレポートしてみたい。

髙島野十郎の作品は、見れば見るほど不思議な気分にさせられる。どの作品も対象の本質に迫らんとする迫真的な描写が貫かれているが、写された事物はどこかとらえどころがなく、見るものを拒むかのような謎めいた雰囲気すらまとう。細部まで克明なのに、なぜか空想上の世界であるかのような異質さを感じる。
1890(明治23)年に久留米で生まれた髙島は、はじめ東京帝国大学農学部で学ぶも、周囲の期待に反して絵の道に進む。驚くべきことは、その高い描写力に反して彼が中学以上の正当な美術教育を受けていないらしいということである。彼の青年時代は、洋画教育の中心である東京美術学校(現在の東京藝術大学)に加え、数々の画塾や洋画団体が勃興した時代と重なっている。画家志望の若者なら誰もが憧れたであろうこれらの組織からあえて距離をとるという彼の個性は、その後に生みだされる作品に通底するどこか謎めいた空気感とも関係があるようだ。

展覧会の冒頭に、大学時代に彼が描いたという魚類の解剖スケッチが展示してあった。一見ひどくかけ離れているようにも思える学問と芸術という二つの世界は、おそらく彼の中ではひとつながりのものであった。あくまで推測だが、自然や生物の複雑かつ精妙な世界、その尽きせぬ謎と魅力に向き合った彼は、狭い分野の研究のみに飽き足らず、それらに宿る本質をもっと直截に、直観のうちに把握してみたいという願いに駆られたのではないだろうか。彼にとって、描くことは思考することにほかならなかった。私がそれを感じたのは、展示室に掲げられていた次のような髙島のことばを見たからである。

 全宇宙を一握する、是れ寫実
 全宇宙を一口に飲む、是寫実 (髙島野十郎『遺稿ノート』より)

自らの目と手、そしてほかならぬ自分自身の感受性を通して「全宇宙」を掌握したいという彼の想いは、画業の初期から晩年に至るまで見事なまでに一貫している。1930(昭和5)年、40歳で油彩画の本場・ヨーロッパへ赴いても、その信念は揺らがなかったことが画風から伝わる。国境を越えて気ままに旅行し、古典絵画の鑑賞や各地での制作に精を出したという彼が見出したのが、名所旧跡や典型的な異国の風景ではなく、どこにでもあるような郊外の街角や田舎の光景であったことは興味深い。見知らぬ土地で、高島はほかならぬ自分の目でもって心の琴線に触れる対象、人生を賭けた思索にかなう対象を探り出そうとしていた。いま目の前にあるものを丹念に見つめる、というそれまでの制作姿勢に深まりをみせたのも、この滞欧期であったのではないかと感じた。

髙島野十郎《パリ郊外》
1930-33(昭和5-8)年 個人蔵
(画像提供:久留米市美術館)

彼は風景と並んで、しばしば静物を好んで描いている。彼の目をとおせば植物の茎のよじれ、果実の虫食いひとつに至るまで、すべてがありのままそこに在るもの、すべて等価な存在である。どの作品も、かぎりなく抑制的で同質的な筆運びが画面全体を支配している。
さらに感じたのは、彼の絵からは一切の余白が感じられないということだ。物理的な余白も、そうでない余白も。厳然たる韻律に支配されるかのような彼の作品では、鑑賞者の感興や想像が入り込む余地がほとんどない。最初に感じたとらえどころのなさも、おそらくここから来ているのだろう。

髙島野十郎《けし》
1925(大正14)年 三鷹市美術ギャラリー蔵
(画像提供:久留米市美術館)

ここで私の勤める佐賀県立美術館で顕彰に取り組んでいる現代作家、池田学のことを思い出す。池田も微細かつ同質的な線を描き重ねて緻密な画面を作り出すという点では、高島と似た部分もある。しかし池田の代表作ではいずれも、密度の濃いペンによるドローイングと対応するように大きく余白が切り取られている。地の紙の色を生かした大胆な余白は、真っ白なスケッチブックのように、見る人にさまざまな背景や物語を連想させ自由な想像を誘う。いっぽうの髙島作品は、その隅々への偏執的なまでの描きこみにより、見るものの生半可な介入を拒むような迫力すら発している。久留米市美術館の学芸員の方が「どこか一枚ヴェールがかかっているような」と評したようなある種の「距離の遠さ」は、常に目前にあるものと対峙し、そこから宇宙的な深淵を掴み取ろうとした画家の精神世界の深さにそのまま通じる。師を持たず、画壇との交わりを断ち、仏教の教えに心を通わせたという画家はひとり自然に分け入って世界の真理を見定めようとした。考えながら描き、描きながら考えたであろう彼は、自身の問いが本質的であることに強い確信を抱いていたことが、絵筆のゆるぎなさからもうかがえる。
対象を見つめながら、彼はそれらの唯一無二な固有性こそを愛したのであったろうが、同時に個の有限性を超えた普遍的な何か、気が遠くなるほどの生命の脈々たる連なりをその眼の射程に入れていたのかもしれない。はたして画家亡きあとも作品は残り、孤独のなかに彼が投げた問いの残響を宿しつづけている。そしてそれは世代を超えて観る人の心をさまざまにかき立て続けながら、強靭なまなざしを持って時代を渡っていったあるひとりの画家の姿を浮かび上がらせるのである。

髙島野十郎《れんげ草》
1957(昭和32)年 個人蔵
(画像提供:久留米市美術館)

美術館をとりまく石橋文化センターの庭園では、春の花々が今を盛りと咲き誇っていた。むせかえるような生命の気配、人の手で丹精された、あまりに美しすぎるほどの花園。もしも画家がこの庭園を前にしていたなら、今度はいったいどんな作品を生み出すのだろう。そんなことを考えながら美術館を後にした。